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Vol.796 宮崎の先覚者 “石井 十次”
今日は 宮崎の先覚者“石井十次”についてお話させて頂きます。石井十次は日本で最初に孤児院を創設した人物と言われています。
石井十次は1865(慶応元)年4月11日、現在の宮崎県児湯郡高鍋町馬場原に生まれます。
幼児期から社会的問題への関心が高く、1882(明治15)年、医学を学ぶため岡山甲種医学校に入学すると供に岡山市に移住します。このとき、キリスト教への信仰を深め、キリスト教となります。
1887(明治20)年、病気療養と医学実地研修で診療所の代診を務める頃、診療所の隣の大師堂において、兄妹2人を連れ夫を失い生活に困っている旅の母親に同情し、その男児を預かる決心をします。ここから本格的な孤児救済運動を始めます。
1889(明治22)年、「人は二主に仕うること能わず」とのキリスト教の教えに感動し、孤児救済に一生を捧げることを決意。医学書を焼いて卒業間近かだった岡山高等学校医学部を中退しました。
1891(明治24)年の濃尾大地震では、被災して親を亡くした孤児93人を、名古屋市に孤児院を開設して引き取り、翌年に岡山孤児院に移しました。このころ、孤児院経営を寄付に頼ることをやめ完全な独立をはたすために、宮崎県の茶臼原という台地の開墾と孤児の移住を始めますが、この台地の開墾は困難を極め、一時は事業をいったん中止せざるをえなくなります。しかし、不屈の闘志で事業を再開し、広大な耕地を開墾することに成功します。
1904(明治37)年には、日露戦争で父親をなくした子どもたちを日本各地から63人を引き取り、その2年後には東北地方の凶作による孤児824人を受け入れます。岡山孤児院は50棟もの家が建ち並び、収容者数が1,200人にものぼったそうです。
「時代教育法」というものも考えていました。少年を、第一幼年時代(10歳以下)、第二少年時代(10歳より15歳まで)、第三青年時代(16歳より20歳)の三つに区切り、 さらに15人ほどの子供たちを一つのグループにして、それに一人の主婦をつける教育法になります。
孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の1914(大正3)年、今までの苦労が祟ったのか、持病の腎臓病によって亡くなります。
1926(大正15)年、岡山孤児院、茶臼原孤児院が活動を終了するのですが、1945 (昭和20)年茶臼原孤児院が、太平洋戦争の被災孤児救済を目的に石井記念友愛社として活動を再開。その後、社会福祉法人石井記念友愛社となり、児童養護施設、保育園などを運営していきます。
1981年に石井十次顕彰会(宮崎県)が設立され、1990年からは石井十次賞が創設され、毎年、石井十次の精神を継承し福祉活動に尽力している団体にこの賞が贈られています!
没後数十年経った後も、様々な施設が設立されるなど、石井十次の思いを継いでいたのですね〜。このブログを見たアナタ!!石井十次と同じ人生を歩むことが出来ますか?今の時代じゃありえないとか言い訳したいところですが、石井十次が生きていた時代でも到底出来ることではありません。精神力・頭のキレ・決断力が尋常でないと思います!そして人との繋がりに対する考え方も・・・。私に足りないものを全て持っている石井十次。学べることが沢山ありそうです。