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Vol.733 宮崎の先覚者 “若山 牧水”
若山牧水は歴史に名を残している宮崎が誇る俳人です。宮崎県民で知らない人はいないぐらいですが、今日はこの若山牧水の生涯について紹介します。
若山牧水(本名・繁)は1885年(明治18年)宮崎県東臼杵郡東郷村(現の日向市にあたる)の医師・若山立蔵の長男として生まれます。
宮崎県立延岡中学校に入学。このころから短歌と俳句を始め、桂露と号しました。
17歳のときに様々な雑誌に歌を出版するようになり、そして19歳のとき、永劫伝わることになる牧水と号しました。
1904年(明治37年)早稲田大学文学科に入学し、同級生の北原射水(後の白秋)、中林蘇水とで「早稲田の三水」と呼ばれるようになります。
27歳のときに太田喜志子と結婚します。その直後、父・立蔵の危篤の知らせを受け、故郷に帰ります。そのとき、文学の道を続けるのか、このまま家族と過ごすのか、牧水は悩んでいたのですが、母・マキに文学を続けることを勧められて再び上京します。
その後も様々な歌集を出版していきます。1920年(大正9年)沼津の自然を愛し、千本松原の景観に魅せられて、沼津に移住します。1926年(大正15年)、静岡県が計画した千本松原伐採に対し、新聞に計画反対を寄稿するなど運動の先頭に立ち、計画を断念させます。
1927年(昭和2年)妻と共に朝鮮旅行に出発し、約2ヶ月間にわたって珍島や金剛山などを巡るが、体調を崩し帰国します。翌1928年夏頃より病臥し、自宅で死去する。享年43歳、愛し続けた沼津の、千本山乗運寺に埋葬されます。
と、若山牧水の生涯をざっと説明するとこのような形になります。
死の大きな要因となったのは肝硬変であると言われています。牧水は大の酒好きで、旅には酒を手放さなかったと言われています。あまりにも早すぎる死にはこのような裏付けがあったのです。
若山牧水は沢山の歌集と歌碑を残しています。興味のある方はこちらの若山牧水公式ホームページへどうぞ!